◇佛照寺の創建
柏原市はその狭い地域に古道(街道)をはじめ、多くの交通網が入り込んでいる為、農村地帯にあっては珍しく商業の町として栄えてきた歴史がある。その中にあって
佛照寺は、江戸時代初期に惣道場【門徒の合力に建てられた道場】として創建された歴史がある。
本堂内陣に掛けられてある寺宝「蓮如上人御真影」に、寛文元(1661)年12月1日に本願寺第13代門主 良如上人(1612~1662)より下附されたとの裏書があるので、それ以前に建立されていたことがわかる。
◇戦国時代の大阪
創建からさかのぼること約50年前。慶長19~20(1614~1615)年にかけて、大坂の役といわれる徳川家・豊臣家の大乱がこの柏原地域であった。
特に慶長20年の大坂夏の陣では道明寺・誉田や八尾・若江でも数万人規模の大きな合戦が行われたので、ここ柏原市も戦乱に巻き込まれ、多大な影響を受けたと思われる。結果として徳川家が豊臣勢力を一掃し、長く続いた政局不安が終結した。
以降、世の中が平穏となって人々が地域に根付き、戦乱で荒廃した行政や一般家屋が再建された。
また、柏原市を含め近隣地域にて土地の再編が行われ、人々の生活にも余裕ができた頃、本郷区のご門徒の方々による寺院建立の申し出が本願寺において許可され、
佛照寺が建立された。現在の大阪府に所属する浄土真宗寺院の大半も、この頃に建立されたようである。
◇寺号(山号)と伽藍
寺号については、天和4(1684)年1月28日の良如上人の佛照寺筋書に「佛照寺」と記されてあるので、この名称はその頃から使われていたようである。
佛照寺(佛に照らされている寺)という寺号、また青龍山(青龍は中国の伝説上の神獣、四神の1つ【本願寺山号:龍谷山】)という「龍」の文字が入った山号が許可されたことなどから、当時のご門徒の方々が本山に対して多額の寄進など、惜しみない協力をしていたことが伺い知れる。
現在の本堂は宝暦13(1763)年9月に建立され、天保12(1841)3月25日に再建されてから現在に至っている。
本堂の大屋根、太鼓楼、門前にかかる七枚橋についても本山の許可なくしては建造できないため、ここにも先達の方々の愛山護法の思いが偲ばれる
創建時に植樹された「カイズカイブキ」と「ソテツ」は当時より寺院や町の営みを見守り、ともにその歴史をかさねてきた。(現在は株分けしたものが植樹してあります)
◇寺子屋(教育機関の役割)
佛照寺は創建当初より、門徒の意向を結集・反映した寺院運営をおこなってきたが、寺子屋としての歴史にも古いものがある。
寺子屋とは庶民の教育への要求にこたえて江戸時代の後期に全国的に発達した教育機関であり、庶民・武士・医者・僧侶・神官などが寺子屋の師匠となって、庶民の子弟に読書き・算盤などの実用的な教科を教えてきた学校機関の前身である。
また当時の僧侶は布教や寺子屋のような学事の傍ら、道路舗装や橋の建設、布施屋(宿屋)を営むなど、種々の社会事業を起こし、地方の強化を図り、民衆の教導に努めたとある。
柏原市史によると、佛照寺では安政元年(1854)年から明治5(1872)年にかけて、当時の住職である水原訓賛が開業した寺子屋に30人(男22人女8人)の子弟が学び、明治5年まで継続したとある。
当時近隣にて行われている寺子屋は、享和年間より幕末にかけて、国分村2ヵ所、玉手村1ヵ所・柏原村3ヵ所・平野村1ヵ所・雁多尾畑村1ヵ所の合計8ヵ所あった。
後に日本政府は明治2年に府県施政順序にて小学校の設置を奨励し、明治5年に
柏原郷学校にて69人(本郷32人・今町21人古町16人【男52人女17人】)が学んだと記されている。
明治6年には、地域編成によって柏原小学校の前身となった第三十八番小学が、寺田桂太郎氏(今町)所有の土地を借り受けて開校された。
しかし、当時131人だった生徒数は明治9年には250人~300人に増え、教室が
狭くなったため、明治14年に校地は寺田氏に返却され、明治17年に現在の地に柏原小学校が新設されるまでの間、佛照寺・雲観寺(本郷)・榮久寺(今町)・村会所を仮校舎として多くの生徒が学んだとある。
令和4(2022)年4月現在
【参考資料 ◇日本教育史資料 ◇柏原市史】